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61 :Trader@Live!:2008/04/12(土) 19:39:13.04 ID:JYLiK8/H
この10人のことを調べそして学べ
そこに自ずと道は開かれよう!
・ジェシー・リバモア
・ウォーレン・バフェット
・ジム・ロジャーズ
・ニック・リーソン
・ジョン・メイナード・ケインズ
・ジョージ・ソロス
・ヴィクター・ニーダーホッファー
・ジョン・メリウェザー
・リチャード・デニス
・今井雅人
ジェシー・リバモア
ジェシー・リバモア(Jesse Lauriston Livermore、1877年7月26日 – 1940年11月28日)はアメリカの著名な投機家、相場師である。グレートベアの異名を持つ(相場では一般に買い方に回る強気筋を「ブル」、売り方に回る弱気筋を「ベア」と呼ぶ。リバモアは売りで非凡な才能を見せたためこの異名がついた)。
ウォーレン・バフェット
ウォーレン・バフェット(Warren Edward Buffett、1930年8月30日 -)はアメリカの著名な株式投資家、経営者、慈善家。現在は、世界最大の投資持株会社であるバークシャー・ハサウェイの会長兼CEOを務める。
明確な投資哲学・スタイル(長期投資を基本スタイルとする点など)や先見性、慈善事業に積極的なこと、大富豪となっても質素な生活を送っていることなどから、他の投資家はもとより世界中から尊敬を集めている人物であり、敬愛の念を込めて「オマハの賢人」(Oracle of Omaha)とも呼ばれる。毎年オマハで開催されるバークシャー・ハサウェイの年次株主総会に、バフェットと同社の副会長で、バフェットの長年のパートナーであるチャーリー・マンガーの話を聞くために世界中から数万人にものぼる株主が参加することは有名である。
ジム・ロジャーズ
ジム・ロジャース(Jim Rogers、1942年10月19日 – )は、アメリカ合衆国アラバマ州出身の投資家。クォンタム・ファンドの共同設立者(Co-Founder)。現在はRogers Holdingsの会長。
投資手法は保守的な”BUY AND HOLD”ではなくて、利益が出る状況に応じてロング(買い持ち)とショート(売り持ち)のどちらでもポジションをとり、投資対象も株式だけでなく通貨・商品と幅広く、また現物取引だけでなく先物取引やオプション取引も行う等、ジョージ・ソロスともに1970年代におけるヘッジファンドの先駆者であった。国際情勢、マクロ経済、金融政策、社会のトレンドなどによる需給の変化を徹底的に調査して、そこから価格の大きな上昇または下落を予想してポジションをとる、後にグローバル・マクロと呼ばれたスタイルの走りでもあった。ただし、いつもポジションをとるのが早過ぎるとして、下手なトレーダーを自称している。
Arnhold & S.Bleichroeder勤務時にジョージ・ソロスに出会ったことがきっかけで、1973年、ジョージ・ソロスとともにクォンタム・ファンドを設立する。クォンタム・ファンドは10年の間に3365%のリターンを得た(ちなみにこの間、ダウ平均株価は20%上昇したにすぎなかった)。この成功とともに、junior partnerであったジム・ロジャーズがスタッフの増強に反対し[2][3]、クォンタム・ファンド運営の考え方に違いが生じたためジョージ・ソロスと袂を分かち、1980年にクォンタム・ファンドを去るとともに仕事を引退した。
ニック・リーソン
ニック・リーソン(Nick Leeson、1967年2月25日 – )はイギリス人元銀行員。ベアリングス銀行を破産させたトレーダーとして知られる。
イギリス南部ワトフォード(w:Watford)に左官職人の長男として生まれる。1985年、18歳で学校を中退、銀行業界へ入る。クーツ・アンド・カンパニーで事務員を務めた後、1987年よりモルガン・スタンレー銀行に勤務、先物オプション取引決済事務に従事。1989年にベアリングス銀行に入行する。入っても普通なら一生事務員で終わるところを、インドネシアのジャカルタ支店で債権処理問題を任されたことから出世コースへ進んでいく。
リーソンはシンガポール国際金融取引所(SIMEX)におけるベアリングズの先物取引部門責任者に抜擢され、学閥や家柄に関係なく実力でのし上がれるアジア市場に夢を見出した。シンガポールに赴任して1年経つ頃には日経平均と日本国債のデリバティブ取引を中心に、1,000万ポンド以上、ベアリングズ銀行の利益の一割を稼ぎ出すまでになっていた。しかしこのときすでに、部下の注文ミスなどを不正処理して、架空取引口座(Error Account)88888番に入金し、それを隠蔽するために内規で禁じられていた自己売買を繰り返し、かえって損失を増大させていった。
1995年1月17日、阪神・淡路大震災で日本市場が暴落した時、リーソンは一日で5,000万ポンドもの損失を出した。その後持ち直すかと見られた相場も下げ止まらず、損失を一気に取り返そうと賭けに出たリーソンの思惑は外れ、架空取引口座88888の損金は加速度的に膨れ上がる。2月24日(誕生日前の金曜日)、ついに辞表を提出しシンガポールからボルネオに逃亡。事件が明るみに出てみると、損失は約8.6億ポンド(約1,380億円)、当時のベアリングス銀行の自己資本金を超過する莫大な額に膨れ上がっていた。関係者は善後策を協議するものの、ベアリングズ銀行の建て玉の引き受け手はなく、週明け2月27日イングランド銀行はベアリングス銀行の再建断念を発表した。
妻とともにアブダビ経由フランクフルト行きの飛行機で逃亡したリーソンは、2月27日フランクフルトで逮捕後シンガポールに送還。同年12月、懲役6年半の実刑判決を受けた。
ジョン・メイナード・ケインズ
ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes、1883年6月5日 – 1946年4月21日)イギリス生まれ、20世紀学問史において最重要人物の一人とされる。経済学者、ジャーナリスト、思想家、投資家、官僚。経済学において有効需要(着想自体はミハウ・カレツキが先であるとされる)に基いてケインズサーカスを率いてマクロ経済学を確立させた。
経済学者の大家アルフレッド・マーシャルの弟子であり、論敵アーサー・セシル・ピグーとは兄弟弟子、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインやブルームズベリー・グループとの交流は有名。父のジョン・ネヴィル・ケインズも経済学者である。
『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1935年 – 1936年)において、不完全雇用のもとでも均衡が成立しうるとした上、完全雇用を与えるための理論として、反セイの法則を打ち立てた上、産出高は消費と投資とからなるとする有効需要の原理を基礎として、有効需要の不足に基づく非自発的な失業の原因を明らかにした。有効需要は市場メカニズムに任せた場合には不足することがあるが、これは投資の増加が所得の増加量を決定するという乗数理論に基づき、減税・公共投資などの政策により投資を増大させるように仕向けることで、回復可能であることを示した。
なお、上の議論に対しては、公共投資政策ないし投資の国家管理の本質は、単なる有効需要の付加ではなく、政府による公共投資が企業家のマインドを改善することで経済全体の投資水準が底上げされ得るという点にあり、産業の国有化を意味するものではない。
これらの彼の提唱した理論を基礎とする経済学を「ケインズ経済学」(「ケインズ主義」という言葉もある)と呼ぶ。このケインズの考え方は経済学を古典派経済学者とケインジアンとに真っ二つに分けることとなった、後の経済学者にケインズ革命と呼ばれる。
ケインズの有効需要創出の理論は、大恐慌に苦しむアメリカのフランクリン・ルーズベルト米大統領によるニューディール政策の強力な後ろ盾となった。
パリ講和会議におけるドイツへの莫大な賠償金に対し「平和の経済的帰結」(全集では2巻、東洋経済新報社)を出版し大反論キャンペーンを行った、このケインズの考えは政策担当者・諸国民から強烈な批判に遭うこととなった。しかし、ナチス・ドイツの台頭と第二次世界大戦の勃発により、歴史によって正しかったことが証明される。
投資家としても成功したケインズは、株式価格形成の問題を当時の新聞で行われていた美人コンテストを例えにして、個々の判断に基づく投資より投資家全体の投資を考慮した投資の方が有効であると説明した(美人投票)。
ケインズ自身の投資法は独特であり、当時の常識とは大きく異なっていた。彼はインサイダー情報を当てにせず、朝起きてベッドの中で新聞の金融情報を読み、電話取引を行うだけであった。また、母校キングス・カレッジの会計係に就くと、カレッジの基金3万ポンドを運用し、38万ポンドに増やした。
ジョージ・ソロス
ジョージ・ソロス(George Soros、1930年8月12日 – )は、ハンガリー・ブダペスト生まれのユダヤ系アメリカ人の投機家、株式投資家、慈善家、哲学者。ハンガリー語での姓名はSchwartz György(シュヴァルツ・ジェルジ)であった。
現在、ソロス・ファンド・マネージメント、Open Society Institute (en) の会長を務めるほか、外交問題評議会に身を置いていた時期もある。2006年の会社からのボーナスは、約8億4000万ドル(日本円にして約949億円)だった。
ジョージ・ソロスはエスペラント作家Tivadar Sorosの息子である。カウフマンの伝記“Soros”(2002年)によれば、Tivadarはハンガリー系のユダヤ人であり、第一次世界大戦の戦中と戦後に捕虜となり、ロシアから逃走し、ハンガリーのブダペストで自分の家族と合流した。
ソロス一家は、ファシストの台頭と反ユダヤ主義の広まりに応じて、1936年にアシュケナジムに多いSchwartz(シュヴァルツ)からSoros(ショロシュ)へと姓を変えた(参照:Kaufmann, p.24)。Tivadarは、この新しい名前が気に入った。この名前は、回文であり、それなりの意味があったからである。その意味について、カウフマンの伝記でも明確に述べられているわけではないが、ハンガリー語では「SOROS」は「並びの次」または「指名されている後継者」を意味し、エスペラント語では「上昇するだろう」(「上昇する」を意味するsoriの未来形)を意味する。彼の息子であるジョージは、生まれたときからエスペラントを学んだ。このため、彼は数少ないエスペラント語の母語話者である。ジョージ・ソロスは後に、典型的なユダヤ人家族に育ったことと、彼の両親は宗教的なルーツに対して慎重であったことを述べている。ただし、ジョージの父はユダヤのルーツを誇りにしていた。これは、彼のホロコースト体験を綴った回顧録「Masquerade」にも記述されている。
ジョージ・ソロスは2度結婚と離婚を経験している。最初の妻はAnnaliese Witschak、2番目の妻はSusan Weber Sorosである。最初の妻Annalieseとの間にロバート、アンドレア、ジョナサンの3子がおり、2度目の妻Susanとの間にアレクサンダーとグレゴリーの2子がいる。兄ポール・ソロス(Paul Soros)はエンジニアで慈善家、投資家、ニューヨークの名士としてもよく知られている。
ソロスが13歳のとき、ナチス・ドイツが同盟国であるハンガリーを軍事的コントロール下に置いた(1944年3月19日)。そして、ハンガリーのユダヤ人に対しホロコーストによる殺戮が始まった。ソロスは、短い間だが、ナチスが設立したユダヤ協会に従事した。この組織は、ユダヤ人弁護士たちに退去命令を送るものであった。ソロスは、退去命令がもたらす結果について、関知していなかったと主張した。翌年、ソロスはブダペストでのナチス・ドイツ軍とソ連軍による熾烈な市街戦を生き延びた。その後、ソ連軍による虐殺を目の当たりにしハンガリーを出ることを決意する。この時期、ハンガリーのハイパーインフレーションの間(1945年 – 1946年)、ソロスは初めて通貨取引をした。
1946年、ソロスは西側でのエスペラント青年議会に参加することによってソ連の占領から逃れた。ソロスは幼児期(母語獲得期)からエスペラントを教えられていたので、彼は貴重な「著名人としての」エスペラントの「母語」話者である。
1947年、ソロスはイギリスに移住し、1952年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業した。1956年にはアメリカに移る。その意図はウォール街で著述家と哲学者として自立するのに十分な資産を稼ぐことにあったと述べている。
ソロスはソロス・ファンド・マネージメントの設立者である。1970年、彼はジム・ロジャーズとともにソロスファンド(後のクォンタム・ファンド)を設立した。ファンドは10年間で3,365%のリターンを出してソロスの富の大部分を形成した。
1992年9月16日のポンド危機で、100億ドル以上のポンドの空売りを行なったことで、ソロスはすぐ名を挙げた。イングランド銀行が金利を欧州為替相場メカニズム(ERM)を採用している他の国と比較して引きあげること、またはその国の通貨の変動相場の金利を引き上げることに乗り気でなかったことから、ソロスは利益を得た。最終的にイングランド銀行は欧州為替相場メカニズムから通貨を回収することを強いられた。ポンドは価値を下げ、この過程でソロスは20億ドルと見積もられる利益を出した。ソロスは、イングランド銀行をつぶした男と呼ばれた。
1992年10月26日の「タイムズ」紙にて、ソロスは以下のように答えている。
「我々のブラックマンデーまでのトータルポジションはほぼ100億ドルの価値があった。」
「しかし、我々はそれ以上に売ることを決断した。」
「事実、Norman Lamontが英国通貨スターリングを買い支えるため、150億ドルを借りることを価値切り下げの直前に行ったとき、我々はどのくらい空売りすることになるかということを暗に示していたので、楽しんでいた。」
1997年、アジア通貨危機の間、マレーシア首相マハティールはソロスがマレーシア通貨リンギットを下落させたことを戦犯と非難した。
1988年、ソロスはフランス銀行の乗っ取りの試みに参加するように頼まれた。彼は株式の取得への参加を断ったが、後に比較的少量の株式を買った。14年後の2002年、フランスの裁判所はその行為はフランス証券取引法を根拠としてインサイダー取引であると裁決し、200万ドルの罰金を科した。ソロスは一貫して罪状を否認し、乗っ取りのニュースは誰もが知っていたことであったと主張した。
ヴィクター・ニーダーホッファー
ヴィクター・ニーダーホッファー(Victor Niederhoffer,1943年 – )はマタドール・ファンドおよびマンチェスター・トレーディングを運営するヘッジファンドマネージャーである。またカリフォルニア大学バークレー校の元教授であり、スカッシュの元学生チャンピオンでもある。
ハーバード大学で学士号を取得、シカゴ大学で博士号を取得。1967年から1972年までの5年間、カリフォルニア大学バークレー校にて教授を務めた。1965年、学生であった彼は友人のフランク・クロスと共に、非上場企業を買収し上場企業に売却する目的での投資銀行を共同設立した。
1980年には投資ファンドを設立しパフォーマンス的にも成功を収めると、それがジョージ・ソロスの目に留まり、ソロスのファンドのパートナーとして招かれた。ビクターは1982年から1990年までソロスのファンドに在籍したが、ソロスはビクターのことを「相場で勝ち続けながらも(ソロスの元を)自ら去った、唯一のファンドマネージャー」と高く評価しており、自分の息子に彼の元でトレーディングを学ばせた程である。
その後1996年までビクターは高いパフォーマンスを続け、世界一の投資家と称えられたが、1997年のアジア通貨危機で大敗し、彼のファンドも破綻に追い込まれた。このときの彼は、同年10月27日の株価の大暴落が大衆を巻き込んだヒステリックなもので翌日には大きく反発すると予想し、買いポジションを持った。しかし取引額が大きかったので5000万ドルの追証が発生。その金額を集めることが出来なかったために、翌朝の寄り付きには多額の含み損が強制決済された。そしてその1時間後の午前10時には、ビクターの読みどおり株価は大きく反発、暴騰をはじめた。
破産したビクターは翌1998年、私財を売却し、自宅を担保にして手に入れた資金を元手に再度ファンドを設立。その後、2001年から2006年にかけて年率40%以上のパフォーマンスを記録した。
しかしながら、2007年のサブプライム危機および信用収縮により、ビクターの運用するMatador Fundは75パーセント以上の資産を失い、同年11月にはクローズに追い込まれた。
彼はスカッシュの選手として歴史に名を残すほどの名プレイヤーであり、ハーバード大学時代には学生チャンピオンに輝き、全米硬式スカッシュの大会では5回の優勝、ダブルスでも3回の優勝を達成、スカッシュの殿堂入りを果たしている。
ジョン・メリウェザー
ジョン・メリウェザー(John Meriwether、1947年8月10日- )は、元ソロモン・ブラザーズ(Salomon Brothers)の債券トレーダー。アメリカのイリノイ州シカゴ生まれ。
ノースウェスタン大学で学士号を、シカゴ大学ビジネススクールでMBAを取得。
ソロモン・ブラザーズに入社し債券トレーダーとなり、1980年代前半には国内債券取引グループのヘッドに、1988年には取締役副会長にまでのぼりつめ、将来の社長候補と目されていた。しかし、1991年に財務省の長期債券競売における不正入札が発覚し、当時ソロモンブラザーズの副会長であったメリウェザーは5万ドルの民事制裁金を支払い引責退社した。
1994年、彼の発案でコネチカット州グリニッジにヘッジファンドのLTCM(The Long-Term Capital Management)を設立。LTCMはマイロン・ショールズとロバート・マートンという2人のノーベル経済学賞学者を擁し、高度な数学および理論経済学的テクニックを駆使して1995年には43%、1996年には41%という高い運用成績を上げた。しかし、1998年8月に起こったロシア金融危機を発端に1998年10月破綻。
1999年にはLTCMの負債を返済し、新たにヘッジファンド・JWMパートナーズ(JWM Partners)を立ち上げ、現在運営している。
メリウェザー在籍時のソロモン・ブラザーズは、債券売買への定量的アプローチで巨額の収益を上げ、「キング・オブ・ウォールストリート」と呼ばれていた。 ソロモン時代には、トレーダー間で金を賭けた「うそつきポーカー」(紙幣に印刷された数字をトランプの札とみなして行うポーカー・ゲーム)では無類の強さを誇った。マネックス証券社長松本大は彼の薫陶を受けている。
リチャード・デニス
リチャード・デニス(Richard J. Dennis)はアメリカの有名な投資家。400ドルを数十億ドルにした。パートナーに元数学者ウィリアム・エックハートがいる。
パートナーであるエックハートと『優秀なトレーダーを育成できるか』という議論、賭けをする。そして1983年と1984年、2度に亘り『ウォール・ストリート・ジャーナル』に広告を出し、教えられた投資手法は絶対に口外禁止という条件の元、トレーダーを募集、育成した。 最終的には「タートルズ Turtle Traders」は23人育成され、成功をおさめているため『優秀なトレーダーを育成できる』という結論にいたる。 タートルズの名前の由来はデニスが東南アジアに旅行に行ったときに見た亀の養殖から、トレーダーを養殖する事とかけた事から。
トレンドフォロー。ドンチャン・ブレイクに代表されるような20日・50日のブレイクアウト手法に資金管理を加えたものである。インターネットが普及し、複雑な値動きをする現在ではトレンドフォロー系の手法はほとんど通用しないという説がある(実際、デニスは一時期50パーセント近いドローダウンに遭い、資金を引き上げトレードを止めた時期がある)。一方で、トレンドフォロー系の手法には収益性に波があるだけであり、現在でもその有効性に変わりはないという説もある。いずれにせよ、非常に大きなドローダウンを伴うため、少ない資金で始めた場合、破産する可能性は低くない。現在でも、この手法で運用しているという触れ込みの投資機関は存在する。
今井雅人
今井 雅人(いまい まさと、1962年2月21日 – )は為替のデイトレーダー、政治家。民主党所属の衆議院議員(1期)。マットキャピタルマネジメントCEO。岐阜県下呂市出身。
東海高校卒業後の浪人生時代から雀荘のアルバイトと代打ちで稼いでいた生粋の勝負師。
心理学などを用いた独自の投資手法で17年間、1年もマイナスなく勝ち続けている常勝トレーダー。
上智大学文学部英文学科卒業後、三和銀行入行。
為替のディーリングを1987年よりスタート。
その後は赴任先のシカゴ通貨先物市場でキャリアを重ねると共に、海外の豊富な人脈を形成。
帰国後は為替の仕事をメインとして従事、2004年3月までUFJ銀行為替部門の統括次長兼チーフディーラーを勤め上げ、2004年4月に独立しマットキャピタルマネジメントを設立。個人としてディーリングを続ける一方で、慶應義塾大学グローバルセキュリティーセンター、早稲田大学大学院公共経営研究科の研究員を歴任し、元大蔵官僚で経済学者のミスター円こと榊原英資をサポートしている。2006年9月には金融情報配信会社のグローバルインフォ株式会社を設立した。
最近は日経225先物取引に傾倒、またFX(外国為替証拠金取引)業者の外為どっとコムやファイナンスポータルサイト[とれまがファイナンス]ホームページ上で書いているブログが人気となっている。
元東京外為市場委員会委員、東京フォレックスクラブ理事歴任。
2009年、第45回総選挙に、岐阜4区から民主党公認で出馬。現役の国土交通大臣であった金子一義に敗れるも、比例東海ブロックから復活当選。
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